占野 大地 shimeno daichi

ガリガリ、トポトポ……。薄暗い四畳ほどの茶室の静かな茶室の中で、珈琲豆を挽く音や、お湯を注ぐ音が、時間の輪郭をなぞるように鮮明に聞こえる。特徴的な大きな丸い窓からは、木々の青々とした色が光と共に差し込んでくるよう。珈琲だけが主役ではない時間が[珈琲 占野]にはあった。
自然豊かな場所で珈琲を味わうことで、体験的価値を感じてほしいと、2023年春に長野・信濃町に移住し[珈琲 占野]として活動する占野大地さん。珈琲は学生時代から生活の中心にある存在だった。さまざまな珈琲屋さんに足を運んでは店主の淹れ方を見たり、家でおいしい珈琲の淹れ方を勉強したり、独学で向き合あう日々。次第に焙煎にも興味が出てきた占野さんは、社会人になってからも、神奈川で会社員として働きながら、一年間東京へ通って焙煎を学んでいた。
「当時、珈琲があったことで、日々をただ忙しなく生きていた中でも、さまざまなモヤモヤから少しの間離れて穏やかな心を取り戻せることができました。今、ここにただ自分が在る、という実感を得られたのも珈琲のおかげです」。
その後、珈琲で活動していきたいと、会社を退職し、茅ヶ崎のアパートで豆を焙煎してオンラインで販売することをはじめた。そんな中、学生時代からの知り合いだった陶芸家・福村龍太さんからの声かけにより、つながりのあった福岡のギャラリー[うつしき]で展示会に寄せた“珈琲ノ席”を設けることに。福村さんの作陶した器に珈琲を淹れて、お客さんに味わってもらう。そこには、お客さんや作品に対して、一杯ずつ丁寧に向き合う時間があった。その後、京都のギャラリー[tonoto]でも作家・山本亮平さんの手がけた器で珈琲を提供するなど、作品と関わる機会が増えていく。それは大地さんにとって、自身の好きなものと珈琲とが融合された瞬間だった。
「もうひとつ、学生時代から好きだったものが、古道具や作家の手がけた作品でした。ギャラリーで気になるものを手にしたり、店主さんから作品のことを教えていただいたり、自宅で丁寧に使って自分なりの育て方をしたり。経年変化も含めて、手触りや見た目など同じものがひとつとして存在しない、唯一無二なものだからこそ惹かれました。それらと珈琲の一杯を組み合わせることで新たな価値観が生まれるような気がしました」。
普段からモノに対する意識があったからこそ、展示会でも、作品の特徴を含め、作家がどのような思いで作品を手がけているのかストーリーにも注目して、器を活かした珈琲を淹れていた占野さん。


珈琲の活動を続けていくうちに、店舗を持つという目標と東京でやることの意味について考えるように。長崎・対馬で生まれ、山口・下関で育ち、自然が身近にある場所で暮らしていたからこそ、緑ある場所で生活と共に活動ができればと場所を探し始め、そしてたどり着いたのが信濃町だった。自身の足で町を歩いていたときに出会ったのが今の物件。目にした時に、ここで生きていきたいというイメージがわいたことが決め手に。自身の気持ちをつづった手紙を当時の持ち主に直接渡し、その後、何度も会って想いを伝え、物件を譲ってもらえることになった。
「自然に囲まれた静かな場所で、近所の人たちの暮らしもあるからこそ、それらのバランスを崩さずに、珈琲を淹れることができたらと思いました」。
小さな集落の端にぽつんとある建物。すぐ側には小川が流れ、山の木々から木漏れ日を降り注ぐ。反対側には田畑がのびのびと広がっていて、自然と人の暮らしが調和したような場所だった。
寒い冬の日、真っ白な雪に転々と続く小さな動物の足跡。春になれば、植物が芽吹き、爽やかな風と共に、優しい光を浴びている。夏になれば月明かりのもとでホタルが自由に飛び、秋には紅葉のグラデーションと色彩豊かな風景が。そしてまた冬がやってくる。
そのような日々の中で、都会で暮らしている時より、暮らしへの好奇心はさらに広がった。敷地内の植物に豊かな光を当てたり、薪として生活で使用するために木を切ったり、庭の水辺や木々にやってくる鳥や動物を観察したり、野菜を育てたり、近所の人とおしゃべりをしたり。自然の暮らしの中で発見や喜びは尽きることがない。
「もちろん、理想論だけで活動と生活との両立を続けていくことは簡単ではありません。だからこそ活動を数字的に捉えたり、課題があれば解決策を探したりして、理想と現実のギャップを埋めるようにできればと思っています」。


自宅と併設する茶室のような畳の空間。“珈室“(こしつ)と名付けたこの空間では、月に一週間、予約制の喫茶[珈琲ノ席]を催し、4種類の珈琲と3種類の甘味の時間をコース仕立てで提供している。
“珈琲ノ席”において意識しているのは音。風が木々を揺らす音や、川のせせらぎ、動物の鳴き声……。自然にあふれる音を消すことなく、室内は音楽も流さず、エアコンも付けない。道具の音の立て方、お湯をポットに落とす音など、調和できる音を厳選する。
「一番に感じてほしいのは窓から見える四季の移り変わり。来てくださるお客さんも珈琲を飲むことだけが目的ではなく、春に芽吹く植物の香りや、夏の輝くような日差し、秋に響く虫の鳴き声、冬に目にする神秘的な風景など、自然の美しさを感じてくださります」。
物質的な豊かさとは違った、この場所ならではの時間によって心身で感じられる豊かさ。それは短時間では感じることができないからこそ、“珈琲ノ席”はコース仕立てのようなひとときでお客さんをもてなす。そんな占野さんが珈琲を淹れている時の心持ちは、自然に対して心を寄せる感覚と同じだとか。洗練された空間では思わず緊張してしまいそうだけれど、そうならないのは、自然への向き合い方と変わらない占野さんらしい穏やかさがあるからなのかもしれない。
「珈琲をやっている理由として、最高の一杯を作りたい、という珈琲そのもののこだわりもありますが、それよりも珈琲と甘味の周りにある、お客さんとの会話や、道具の設え、空間演出も含めて豊かな時間にしたいからという想いで続けているかもしれません」。

占野大地。穏やかな性格とカリスマ的存在で、暮らしと仕事のバランスを計りながら生きている。初めてお会いするまでは、繊細な丁寧さと、深く何かに入り込んでしまうような世界観を感じ、自分よりもっと年上の寡黙な方が珈琲を焙煎しているのかも……、と勝手なイメージを抱いていた。しかし、実際にお会いすると、まさかの同世代で穏やかな笑顔で接してくれたのが印象に残っている。どのようにして今の暮らしの生き方を考えて、行動するようになったのか。占野さんの話を聞いてみたいと思って、今回取材のためにお時間をいただいたのだった。
場所を持ったことで、関わりのある作家による展示会を開催したり、1日1組限定の宿を作ったりなど、これからの目標もたくさんという占野さん。もちろんお客さんのための珈琲の焙煎も欠かさない。そんな彼と共に[珈琲 占野]として活動する妻の奈菜子さんは、甘味を担当しながら、生まれ故郷の神奈川と長野の二拠点で生活をしている。
「お菓子も季節をイメージして手がけています。香りや色、味わいから四季の風景を感じてもらえたら」。
“珈琲ノ席”での甘味は季節によってさまざま。バナナの生春巻きを揚げてココナッツのスープと混ぜ合わせた一品や、信濃町産のもろこしとマスカルポーネを合わせたシュー、ブルーベリーとヨーグルトと合わせた甘味など、料理的な要素も含まれた味わいが魅力的。

奈菜子さんにとって長野での生活でうれしいことは、近所の人からお裾分けしてもらった野菜や畑の採れたての野菜で料理を作っている時。
「以前、八百屋で働いていたことがあって、今日の野菜はどういう人が作ったのだろうって想いながら働いていました。長野では、近所の人が、お野菜持って行きな~って両手いっぱいに野菜をくださって。そうして作っている人の顔を見て関わりながら、おいしい食材で調理をして、大切な人と食卓を囲む。そんな日々が幸せです」。
玄関前には、長野の涼しげな風を浴びながら、色鮮やかな夏野菜がてんこ盛りに並んでいた。日本の気候に合わせて育つものの姿は大きかったり、変わった形をしていたり。そのひとつひとつには食卓を彩る味わいがある。
人も自然も多様的だからこそ、その重なりや、そこから生まれる余白を通して、「今」というひとときの美しさに気づかせてくれるような占野さんの珈琲。そこには占野さんたちが暮らしの中で触れている小さな喜びがきらりと光っているようだった。
Ayaka Onishi
大西文香 1994年兵庫県生まれ。写真家。
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