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落合 恵理 ochiai eri

  • 2022.08.05

卒業式が間近に迫る春休みの校内は閑散としていた。春を待ち遠しく思っているかのような気配がする。

京都市内から少し外れた場所にある京都橘大学。私が高校生の頃、日本史を学ぶために受験しようか迷っていた大学だ。まさか大人になって足を運ぶことになるとは思わなかった。その京都橘大学で4年間書道を専攻していた落合恵理。この日は彼女にお願いして友人の結婚祝いのためのメッセージを書いてもらう予定だった。真心を込めて真剣に向き合っても字に自信がない私にとっては心強い味方のような気がした。

「小学生や中学生の時はピアノやそろばん、英語など一週間習い事ばかりの日々でその中に習字がありました。どの習い事も自分からやりたいと母にお願いしていたのですが、習字だけは自分ではなく母が決めた習い事でした」。

地元の習字教室の先生の優しい教え方が自身の習字の楽しさにもつながっていった。最終的に高校生になっても習い事として残っていたのが習字だった。

高校生になってからは書道の部活にも所属していたが、その時の顧問がとても厳しい方だったという。顧問からの意地悪な発言も多々耳にしていた。逃げたい気持ちもあったが、その先生から逃げることに悔しさも感じた。絶対に負けたくない。この先生に勝ちたい。闘争心に燃えてひたすら字を書き続けた日々だった。

「高校3年生になってからは大学受験をきっかけに習字の他にも書道を学ぶようになりました。地元の習字教室では学べる範囲に限界があったため、別の書道教室に通うことになったんですけど、そこにも書道部の厳しい顧問がいたことから心が休まることはありませんでした。それでも自分から書道を無くしたら何も残らないと思って日々しがみつくような思いで向き合っていました」。

習字とは正しい筆順で〈とめ〉〈はね〉〈はらい〉を意識しながら字を真似すること。対して書道は古典の字をもとに字を書くことであり、自己表現や芸術性も含まれるという。中国か日本という国によっても古典的な字の筆跡は異なってくる。

「私は中国の古典の字を習っています。出だしの起筆が特徴的で、日本の字は筆の入りが優美で浅い感覚ですが、中国の字は最初から力強さがあるといった違いもあります。」

これは日本と中国の古くからの風土が関係しているとも言われる。中国の厳しい気候では弾力性のある文字が生まれ、温和な気候の日本では自然と調和するように軽快な文字となったのかもしれない。

大学に進学してからは専門的に書道を学ぶことにした。日本の書道会においてトップレベルとされる先生が講師として所属していたことも決め手のひとつ。書論など書道の歴史を学ぶ座学もあり、書道の知識をより深めることができる学生生活だった。

「授業で先生が仰っていた『書で人の命を救うこともできると思う』という言葉が印象的で、自分もその言葉に納得することができました」。

書かれた文字に〈あなたは素晴らしい〉という意味があるのではない。書かれた文字の存在自体が心に直接〈あなたは素晴らしい〉と語りかけるのである。そのとき書道で書かれた文字はパレットに描かれた絵と同じような存在と価値を感じるという。

「よく周囲の人にどのように書を見たらいいのか分からない、と聞かれることがあります。難しく意味を見出そうとしてしまうのかもしれません。けれど絵を目にした時と同じように直感で心地よいかどうか受け入れることで既にその書を見ている価値はあると思います」。

自身の書もそのように見てもらえたらと、展示の際には作品1点を出すために600枚ほど書き続けるという。

印象深かったのは大学1年生の時に出展した〈全日本高校・大学書道展〉である。年に一度開催され、日本全国から高校生と大学生が作品を出展する。彼女は先輩から教わりながら同じ字を何度も練習してひたすら書くことで自分の納得できる字を探し求めた。

「自分らしい生き生きとした線の質が文字に反映できれば、沢山作品が並ぶ中でも力強く目をひくことができると思っていて。沢山書いているうちに書きながらこれが奇跡の一枚だ!と自分でも感動することがあります」。

そのような時は、書いた後もその余韻が手のひらに残っているという。また、そのようにして生まれた作品が日本最大規模の総合公募展である〈日展〉で展示されたことも彼女にとって嬉しい経験だ。応募するだけでも勇気がいるとう風潮を気にせず堂々とやりたいことをやってみた結果だった。

作品で書く文字は漢文から選ぶ。その言葉が持っている意味ではなく文字の見た目や形を選ぶ基準としているため、原文をそのまま書くのではなく、原文から漢字を取捨選択して最終的に自分が納得できる漢字の並びにしてから書くことのほうが多い。一行で書くこともあれば紙に三行もの字を連ねることもある。

「先生からは具体的に教えていただくことよりも、この文字のこの部分が気になるといった抽象的な感想を伝えられることがあります。その時は試行錯誤しながら書くことによって自ら答えを導き出していくしかありません」。

自分らしい書道をするためにも、基本的な知識を学び、先生とのやりとりを重ねて、時間をかけていくことが大切なのだ。

卒業制作の作品も自分自身の限界を示そうと一年間かけて練習した結果大きな屏風に文字を連ねた作品が生まれた。

「小さいものはごまかせますが大きいものはごまかせません。だからこそ敢えて正々堂々と書ける大きな作品にしました」。

他にも習字教室の先生として幅広い年代の生徒に習字を教えている。月に一度、書道に触れてもらう機会として、篆書、隷書、行書、楷書から自分の書きたい文字を選んでもらって生徒に作品を作ってもらう時間を設けている。教室では、静かで厳かな雰囲気よりも、楽しく学んでもらえるように生徒の字を褒めたり、一緒になってふざけたりして賑やかな雰囲気となるように心がけている。その時間があるから、文字と真っ直ぐに向き合って楽しむことにもつながると考えている。

大学院に進学してからもお習字教室の先生を続けている恵理ちゃん。大学院では書道についての歴史や成り立ち、どのように書かれているかを研究して、自身の作品にも活かしたいという。将来は書家としても活動を志している。

近年は中国古典の字をもとにしていない人の字が書道としてメディアやSNSで取り上げられることも多い。しかし書道で書かれる文字には、古くに漢字を生み出した王羲之とよばれる人の特徴である王羲之風が見えてくるものだという。独自の感覚だけでは作品は生み出せない。文字の成り立ちを理解して書き続けることで初めて書道家になれるのだ。

「今は若くても書くことを続けていたら良い作品が生まれると思っています。時間をかけなくてもできることが増えていく世の中だからこそ手間をかけて時間を費やすことでしか生まれないものも大切にしたいなと。読まれるための書道だけではなくて見ることによって相手の心へ働きかけるようなものを目指したいです」。

落合恵理。一見、柔らかい雰囲気の可愛らしい女の子だが、その印象を遥かに超えて逞しさと勇ましさを兼ね備えた文字を書く。そこには静かな情熱が宿っているようだ。彼女の書く道はこれからも続く。時間をかけていくことでしか見えてこない景色がきっとその先にあるような気がしている。

京都の美術館で勤めていた私は、過去に〈日展京都展〉で展示されていた書道の作品を目にして心動かされたことがある。

文字の大きさ、余白、筆の太さや色の濃さが合わさってひとつひとつの文字からまるで一人の人間と出会うような、生きているエネルギーを確かに感じた。

書道で書かれた「文字」は、ネット上の文字フォントや書籍の活字以上に自分と世界を強く結びつける存在だった。

友人の結婚式のメッセージのために書いてくれた文字は「寿」。しなやかで強かなその文字は喜びそのもののように思えた。

 

 

2022年2月19日(土)

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Ayaka Onishi

大西文香 1994年兵庫県生まれ。写真家。



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